学園資料展示ホールでは、1878年梅花女学校開学に始まる梅花学園のあゆみを写真、資料等により紹介しています。
・展示場所 澤山記念館 1階 学園資料展示ホール |
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梅花学園のあゆみは、1878(明治11)年1月、浪花公会(現浪花教会)の創立者で初代牧師であった澤山保羅(さわやまぽうろ)が中心となって、浪花公会と梅本町公会(現大阪教会)のキリスト教信者の有志が大阪の土佐堀に開校した梅花女学校から始まります。当時の学制における正則英学校としてのスタートでした。 |
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■おしらせ | ||
創立者 澤山保羅の書 「爾凡所欲 人施諸爾 者爾必如 是施諸人」 梅花学園の学生・生徒・教職員にとって、創立者 澤山保羅の書と言えばすぐに目に浮かぶのが、「爾凡所欲 人施諸爾 者爾必如 是施諸人」の扁額でしょう。四字四行は、マタイによる福音書7章12節中の聖句の清朝時代の中国語訳です。 「これを見る度に、私はこれを漢文式に通読すればどうなるだろうかと考えて来た。勿論清朝時代の中国語訳であろうから、漢文として読むのは無理かも知れないが、試策としてつぎのような訓じ方を示しておこう。 (浪花教会会報創立130周年記念号(2007年1月)より) |
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澤山保羅の直筆書簡と澤山馬之進(保羅)宛書簡を新たに展示しています 澤山保羅に関する研究は、梅花学園澤山保羅研究会によって様々な角度から進められてきました。同研究会は、2001年に教文館から出版された「澤山保羅全集」において澤山の書簡を含む全著作を明らかにしました。その中で梅花学園が所蔵する資料はあまり多くはなく、資料の中心は浪花教会所蔵の300点余りの書簡でした。2003年にこれらのオリジナル資料を浪花教会のご許可を得てマイクロフイルムに収めた後に、2005年にはそのマイクロフィルムをスキャンしてデジタル画像を作成してDVDに収めることができました。 ・澤山直筆書簡は、1883(明治16)年6月21日、梅花女学校校長に就任した頃の31歳の澤山保羅が郷里の父方の甥に宛てたものです(梅花学園所蔵)。 (澤山直筆書簡) ・澤山宛書簡(英文)は、1875(明治8)年7月17日、宣教師ダニエル・クロスビー・グリーンから米国留学中の23歳の澤山馬之進(保羅)に送られた励ましの手紙です(浪花教会所蔵)。 (梅花学園澤山保羅研究会編『澤山保羅全集』(教文館)参照、引用) (ダニエル・クロスビー・グリーンの澤山宛書簡) |
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女専時代の写真、資料等を拡充して展示しています。 1922(大正11)年、大阪府西成郡豊崎村の北野校地(現在の大阪市北区豊崎3丁目。
梅田芸術劇場から北に100メートルほどの場所です)に梅花女子専門学校が開校しました。北野校地には、梅花高等女学校(梅花中学校・高等学校の前身)が先に開校していました。女子専門学校は当時の専門学校令に
基づき設置され、高等女学校卒業者を対象とする修業年限3年の高等教育機関でした。略して女専と呼ばれ、大阪府下で最初に誕生した女専が梅花女専です。 (中井終子先生の日記) 戦後の学制改革によって1952(昭和27)年にその歴史を閉じるまで、梅花女専からは1042名の卒業生が巣立ちました。 |
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「北野校地時代の梅花女専」 | 「豊中校地時代の梅花女専」 | |
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「中井柊子先生」 | 「中井先生と生徒たち」 | |
戦後の学制改革以後の写真、資料の展示 学制改革(1947年)により梅花高等女学校は梅花中学校・梅花高等学校に、梅花女子高等専門学校は梅花短期大学(英語科)として発足しました。 |
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「豊中校地の梅花中学校・梅花高等学校」 | 「豊中校地の梅花短期大学」 | |
梅花女子大学(文学部 日本文学科・英米文学科)が1964年に茨木市宿久庄に開学しました。 |
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「開学当時の梅花女子大学」 | ||
・学園資料に関するお問合せ先 梅花学園総務部 資料室 |
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